湊川神社 社名
「湊川神社」の社名は、鎮座地の地名である湊川(みなとがわ)に由来するものである。正成を祀る神社は一般に「楠社」(くすのきしゃ)とか「楠公社」(なんこうしゃ)と呼ばれていたので、「湊川神社」の社名が決まるまでは、この神社も「楠社」と呼ばれていた。
社名の候補としては、「大楠霊神社」(おおくすたまじんじゃ)案と「南木神社」(なぎじんじゃ)案と「湊川神社」案があった。「大楠霊神社(おおくすたまじんじゃ)」案は創建が公式に発表される前の1868年(明治元年)3月末に平田派国学者の矢野玄道(やの はるみち)が提案したもので、すぐに政府の内評を得ている。矢野玄道によると、近江国に「大楠神社」なる神社が既にあるので、それを真似てさらに「霊」の字を追加したという。「南木神社(なみきじんじゃ)」案は堺県(さかいけん)知事・小河一敏(おごう かずとし)が1870年(明治3年)4月に提案したもので、やはり同名の神社が存在することによる。その神社の伝承に寄れば、この社号は後醍醐天皇の勅により与えられたものだとされている。当時としては天皇が定めたということは大きな意味を持つことであり、これによって小河知事は「南木神社」案を強く主張している。「湊川神社」案は、神祇官官吏の八木雕(やぎ あきら)の提案によるもので、地名をつけることで覚えやすくなるだろうとしている。
以上の3つの案があったが、政府は八木の「湊川神社」案を採用した。八木案採用の理由は定かではないが、矢野玄道の「大楠霊神社」案が廃案になったのは、近代化する国家の動きに反して復古を唱える平田派が同時期に維新政府内より排除されたことと関連があると思われる。あるいは国家の創建によるものなので、他の正成を祀る神社と同様の名前を付けず、差異を出そうとしたのかもしれない。湊川神社に続いて建てられた人物顕彰神社の多くも地名を社名につけるこの例を踏襲することとなる。