四條畷神社 歴史

 

 

河内国 讃良郡(ささらぐん)南野村(みなみのむら)字雁屋に「楠塚」と呼ばれる楠木正行の墓があった。



明治期になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成が大楠公として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も小楠公(しょうなんこう)と呼ばれ崇められるようになった。



それに伴い、1878年(明治11年)に楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も拡大した。



同じ頃、南野村 飯盛山(いいもりやま)の山麓にある住吉平田神社(すみよしひらたじんじゃ)の神職らが中心となり、楠木氏らを祀る神社の創建を願い出た結果、1889年(明治22年)12月16日に神社創立と別格官幣社四條畷神社の社号の宣下が勅許され、翌1890年(明治23年)に住吉平田神社の南隣の地に創建した。



当社創建以降、1895年(明治28年)に浪速鉄道が大阪市中心部から当社近くの四条畷駅まで開業するなどして四條畷神社周辺は大いに栄える事となり、所在地の讃良郡甲可村(こうかむら。南野村ほか6ヶ村合併による)には「四條畷」(しじょうなわて)と付く施設が次第に増え、「四條畷」は甲可村の別称のようになって行った。1932年(昭和7年)に甲可村はついに四条畷村に改称するに至り、これが現市名にまで継承されている。同年には浪速鉄道から転じて国鉄路線となっていた片町線の四条畷駅以西において関西国鉄初の電車運転が開始されるなどして、四條畷神社創建をきっかけに周辺一帯は北河内地方随一の大市街地に発展してその賑わいは現在も続いている。