京都霊山護国神社 沿革

 

1862年文久2年)、時衆(じしゅう。時宗)霊山派の正法寺(しょうぼうじ。東山区)の朱印地のなかの神道葬祭場霊明社において有志者による神葬祭が行われた。祭神は菊理媛神(くくりひめのかみ)・速玉男命(はやたまおのみこと)・事解男命(ことさかおのみこと)の3神(他に相殿3神)。



1868年6月29日慶応4年5月10日)明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの・御沙汰が発せられた。それに感激した京都の公家山口高知福井鳥取熊本などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、招魂社である。靖国神社より古い歴史を持つ。



当初の社号を霊山官祭招魂社と称し、社格にはとくに「官祭社」に列し国費で営繕されてきた。1936年昭和11年)、支那事変日中戦争)をきっかけとして国難に殉じた京都府出身者の英霊を手厚く祀ろうという運動がおき、霊山官祭招魂社造営委員会が組織され、境内を拡大して新たに社殿を造営した。



1939年(昭和14年)4月1日内務大臣布告によって現在の社号である京都霊山護国神社と改称された。戦後は宗教法人神社本庁の包括下におかれ、国家の手を離れた。GHQ占領下においては京都神社(きょうとじんじゃ)に改称していたが、独立後は元の社名に復した。1970年(昭和45年)、境内に明治維新関係の資料を展示する「霊山(りょうぜん)歴史館」が開館した。2002年平成14年)、神社本庁との包括関係を解消。



祭神の中には京都で暗殺された坂本龍馬も含まれており、境内に銅像が作られているほか、誕生日であり命日でもある11月15日には、龍馬の遺徳を偲び霊を慰める龍馬祭が行われる(誕生日・命日は本来は旧暦11月15日だが、祭は新暦11月15日に行われる)。



龍馬のほかに、木戸孝允中岡慎太郎頼三樹三郎(らい みきさぶろう)梅田雲浜(うめだ うんぴん)吉村寅太郎(よしむら とらたろう)平野国臣(ひらの くにおみ)久坂玄瑞(くさか げんずい)高杉晋作宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)田岡俊三郎(たおか しゅんざぶろう)ら幕末勤王の志士1,356柱、明治以降の日清戦争日露戦争太平洋戦争などの戦死者を合わせ約73、000柱が祭神として祀られている。 また、平成24年4月には特攻勇士の像が建立された。