豊国神社(京都市) 歴史 ②

 


秀吉の室北政所のたっての願いで社殿は残されたものの、以後朽ち果てるままに放置された。旧参道内には新日吉神社(いまひえじんじゃ。現・新日吉神宮(いまひえじんぐう))が移設され、旧社殿に参拝するための通路も閉鎖された。一時は梵舜に神宮寺が下げ渡される話もあったが、結局は家康死後の1619年(元和5年)に妙法院へ移されている。神体は梵舜が密かに持ち出し、自宅に隠し祀った。なお滋賀県竹生島(ちくぶしま)にある都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)の本殿は創建豊国神社社殿を移築したものと伝えられている。1791年寛政3年)公刊の随筆『翁草(おきなぐさ)によると、家康の孫・徳川家光は豊国神社再興の容認を検討したが、重臣の酒井忠世(さかい ただよ)に反対され、取りやめになったことがあったという。結局、江戸時代を通して再興が認められることはなかった。



1662年6月(寛文2年5月)に京都で地震が起きたとき、豊国神社周辺に被害がなかったため、地震除けの流行神(はやりがみ)として参詣者が集まった。また民間では起請文の対象として豊国大明神が密かに使用された事例もある。



1868年(慶応4年閏4月)、明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下された。同年5月には鳥羽・伏見の戦いの戦没者も合祀するよう命じられた。1873年(明治6年)、別格官幣社に列格した。1875年(明治8年)には東山の地に社殿が建立され、萩原兼従の子孫である萩原員光(はぎわら かずみつ)が宮司に任命された。180年(明治13年)、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。旧福岡反主の黒田長成(くろだ ながしげ)侯爵が中心となり境内の整備が行われ、1897年(明治30年)には神社境外地の阿弥陀ヶ峰山頂に伊藤忠太(いとう ちゅうた)の設計になる巨大な石造五輪塔が建てられ、翌年、豊太閤三百年祭が大々的に挙行された。この工事の際、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見された。遺骸は丁重に再埋葬されたというから、秀吉はいまなお阿弥陀ヶ峰山頂から京都の街を見守っていることになる。その西の下方の平坦地、かつての社殿があった太閤坦には秀吉の孫である国松と秀吉の愛妾松の丸殿の供養塔(五輪塔)が寺町の誓願寺から移されて建つ。