和気清麻呂 生涯 

 


延暦4年(785年)には、神崎川(かんざきがわ)淀川を直結させる工事を行い平安京方面への物流路を確保した。その後、延暦7年(788年)にのべ23万人を投じて上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうと工事を行ったが費用がかさんで失敗している(自然地形を利用しつつ、堀越神社(ほりこしじんじゃ)前の谷町筋がくぼんでいるところと、大阪市天王寺区茶臼山にある河底池はその名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある。さらに東へ河堀稲生神社(こぼれいなりじんじゃ)から寺田町駅付近へ続いていたらしい)。清麻呂は桓武朝で実務官僚として重用されて高官となる。山城国葛野郡(かどのぐん)宇太村(うたむら)を選んで平安遷都の建設に進言し延暦12年(793年)自ら造営大夫として尽力した。



また、延暦5年(786年民部卿として民部大輔・菅野真道(すがの  まみち)とともに庶政の刷新にあたった。桓武天皇の勅命により天皇の母・高野新笠(たかの  にいがさ)の出身氏族 和氏(やまとうじ)の系譜を編纂し、和氏譜(わしふ)として撰上した。子の広世(ひろよ)真綱(まつな)らは、父の没後に官人として活躍した。広世は最澄を招聘して高雄(たかお)の法華会(ほっけえ)を開き、天皇へ最澄を斡旋して勅を蒙り、唐へ留学させ、五男・真綱と六男・仲世は高雄山で最澄と共に空海から密教の灌頂を受けて仏法に帰依し、新仏教興隆に一役買っている。また、姉の和気広虫(法均尼)は夫・葛城戸主(かつらぎのへぬし)とともに、孤児救済事業で知られる。