四条流庖丁道 さまざまな分流

 


山蔭の確立した庖丁式は、藤原北家(ふじわらほっけ)魚名流(うおなりゅう)藤原隆季(ふじわら  たかすえ)を祖とする四条家家職として伝えられ「四条流」と呼ばれることになる。なお、山蔭も魚名流(鷲取(わしとり。藤原鷲取(ふじわらのわしとり))系)であるが、四条家(末茂(すえしげ。藤原末茂(ふじわらのすえしげ))系)とは別流であり、系譜的には直系ではない。



鎌倉時代中期に中御門流(なかみかどりゅう)持明院基家(じみょういん もといえ)の三男で園家(そのけ)を興した園基氏(その もとうじ)が、四条流を学んで別派を興し「四条園流しじょうそのりゅう。もしくは単に園流(そのりゅう))」と称された(なお基氏は華道にも通じ、青山流(せいざんりゅう)を創始している)。



室町時代には足利将軍家に仕えた四条流の庖丁人(料理人)・大草公次おおくさ きんつぐ。三郎左衛門(さぶろうざえもん)が「大草流(おおくさりゅう)を、また室町時代末期には細川晴元に仕えた進士次郎左衛門尉(しんじじろう さえもんのじょう)進士流(しんじりゅう)を創始したと言われ、公家社会のみならず武家社会における料理においても、四条流の分派が浸透しはじめた。



また四条流を学んだ園部和泉守(そのべいずみのかみ)という庖丁人が三河松平氏に仕えていたが、松平元康(徳川家康)が天下人となり江戸幕府を創始すると、「四条園部流」が幕府の台所を預かることとなり、江戸時代には各へも普及が進んだ。