結城神社 歴史
結城宗広は後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加し、建武の新政以後の南北朝時代にも南朝方で戦った。北畠顕家(きたばたけ あきいえ)親子に従って二度陸奥から京に向けて攻め上ったが、帰国の途中で難破し、伊勢国で没した。その墓と伝えられる場所には、塚の上に六体地蔵が置かれ、結城塚と呼ばれていた。
1824年津藩の藩主 藤堂高兌(とうどう たかさわ)により社殿が造営され結城神社と呼ばれるようになった。1945年(昭和20年)7月に津大空襲によって灰燼に帰し、昭和30年代に復興した。
1879年(明治12年)に村社になった。翌年三重県を訪れた明治天皇が、200円を祭祀料として寄付した。これを機に結城神社の社殿改築、昇格の議論がおこり、県が内務省に願い出て、1882年(明治15年)に別格官幣社に列せられた。