皇別 概要
皇別・王孫は天皇が大王であった古代から存在し、財政や後継者争いの防止の観点から現天皇と血筋が遠くなった傍流の皇族や、天皇の子供でも側室や愛妾の子供であるものに姓を与える形で誕生した。彼らは皇族に準ずる存在として高い尊敬を受けたが、やがて藤原家の外戚政治が確立していく中、2・3代ほどで没落する例がほとんどになった。
皇別氏族の中には地方で武士の棟梁として活躍するものもおり、桓武平氏と清和源氏はその代表例である。9世紀には桓武天皇の 5世孫である桓武平氏の平将門が新皇として短い間ではあったが関東に君臨した。また日本で最初に政権を取った武家は、桓武平氏の平清盛であるとされている。清和源氏は源頼朝が平氏本家を打ち破った後鎌倉に幕府を開き(鎌倉幕府)、3代にわたって東日本を統治した結果、武家の盟主として広く認められるようになった。後に源氏の分家である足利家は室町幕府を開き、武士の勢力の伸張と天皇の権威・権力の衰退にも助けられ、15代240年にわたり征夷大将軍として日本に君臨し、外交、内政、軍事を差配した。
また公家の間にも引き続いて皇室から高位の公家に養子に入る形での皇族の血を引く家系もある。すなわち近衛信尋(このえ のぶひろ)以降の近衛(このえ)家、一条昭良(いちじょう あきよし)以降の一条家、鷹司輔平(たかつかさ すけひら)以降の鷹司(たかつかさ)家の3家であり、これらの分家の内男子血統で続いているものや、これらの家から養子を迎えた後男系で続いている家は皇別摂家と呼ばれることもあるが、明治時代の華族の類ではいずれも神別(藤原氏後裔)として扱われている。
皇室の庶家(しょけ)としてその家系は価値を有しており、歴史上皇別・王孫の氏族の出であると偽ったものも少なくない。たとえば滋野氏(しげのうじ)は、貞保(さだやす)親王の裔を称しており、華族の類でもそう扱われているが、滋野氏の系統には諸説が有る。しかし皇別でも有力でない氏族は藤原氏など著名な神別姓を称することもある。
また旧皇族も定義に従えば皇別・王孫であるが、あまりそのようには呼ばれない。