常世神 概要

 


『日本書紀』によると、皇極天皇3年(644年)、東国の富士川(ふじかわ)の近辺の人・大生部多(おおうべ  おお)が村人にを祀ることを勧め、「これは常世神である。この神を祀れば、富と長寿が授かる。」と言って回った。巫覡(かんなぎ)等も神託と偽り、「常世神を祀れば、貧者は富を得、老人は若返る」と触れ回った。さらに人々に財産を棄てさせ酒や食物を道端に並べ、「新しい富が入って来たぞ」と唱えさせた。



やがて信仰は都にまで広がり、人々は「常世虫」を採ってきて清座に祀り、歌い舞い、財産を棄捨して福を求めた。しかし、全く益することはなく、その損害は甚大だった。ここにおいて、山城国の豪族秦河勝(はた  かわかつ)は、民が惑わされるのを憎み、大生部多を討伐した。巫覡等は恐れ、常世神を祀ることはしなくなった。時の人は河勝を讃え、



太秦(うずまさ)は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲(きた)ますも



(秦河勝は、神の中の神と言われている 常世の神を、打ち懲らしめたことだ)


と歌った。

 

 



正体


『日本書紀』では続いて、「この虫は、常に橘(たちばな)の樹に生る。あるいは山椒に生る。長さは4寸余り、親指ぐらいの大きさである。その色は緑で黒点がある。形は全くに似る」と記され、アゲハチョウの幼虫ではないかといわれる。