久能山東照宮 歴史 

 

 

新暦導入以前(1872年以前)の日付和暦による旧暦を主とし、丸括弧内に西暦1581年以前はユリウス暦1582年以降はグレゴリオ暦)を添える。「同年4月(4月)」は旧暦4月(新暦4月)、「同年4月(4月か5月)」は旧暦4月(新暦では5月の可能性もあり)の意。

 

 

久能山くのうざん。標高216m)は、もともと日本平(にほんだいら)と共に、太古、海底の隆起によって形成されたもので、長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。 推古天皇592628年)の頃、久能忠仁(くのう ただひと)久能寺(くのうじ)を建立し、奈良時代行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾えんに。聖一国師(しょういちこくし))など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。永禄11年(1568年)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺。てっしゅうじ)、この要害の地に久能城(くのうじょう)を築いた。しかし、武田氏の滅亡と共に駿河徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。



家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和2年12月(1617年1月)には2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山(にっこうさん)への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築がされ、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(やくしどう。現・日枝神社(ひえじんじゃ))、神楽殿、鐘楼現・鼓楼五重塔(現存は無い、楼門が増築された。



なお、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合榊原(さかきばら)家宗家であった。



造営以来の多くの建造物が現存するが、寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の神仏分離によって解体を余儀なくされた。