五十瓊敷入彦命 墓

 


五十瓊敷入彦命の墓は、宮内庁により大阪府泉南郡 岬町(みさきちょう)淡輪(たんのわ)にある宇度墓(うどのはか)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は「淡輪ニサンザイ古墳」。5世紀後半の築造と推定される、墳丘長200メートルの大型前方後円墳である。



五十瓊敷命の墓について『日本書紀』・『古事記』に記載はないが、延長5年(927年)成立の『延喜式諸陵寮みささぎのつかさ。諸寮式(しょりょうしき))では「宇度墓」の名称で記載され、和泉国 日根郡(ひねぐん)の所在で、兆域は東西3町・南北3町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する。これに先立つ持統天皇5年(691年)には有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀(ていき)や『旧辞(きゅうじ)に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命(ひこいつせのみこと)墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある。



しかし、中世には荒廃して所在が失われた。明治7年(1874年)に『泉州志』の記載に基づき玉田山に定められたが、明治13年(1880年)に現在の墓に改められている。なお、現墓について『和泉志』では紀小弓(き  おゆみ)の墓としている。