五十瓊敷入彦命 記録

 

日本書紀』では、五十瓊敷入彦命に関して次の事績が記載されている。

 


· 垂仁天皇30年1月6日条 

 

垂仁天皇が五十瓊敷命・大足彦尊兄弟に望むものを聞いたところ、五十瓊敷命は弓矢を、大足彦尊は皇位を望んだ。そこで天皇は五十瓊敷命には弓矢を与え、大足彦尊には皇位を継ぐように言った。

 

 


· 垂仁天皇35年9月条 

 

五十瓊敷命は河内に遣わされ、高石池(たかしいけ。大阪府高石(たかいし)市)・茅渟池(ちぬいけ:大阪府泉佐野市)を造った。

 

 


· 垂仁天皇39年10月条 

 

五十瓊敷命は菟砥川上宮(うとのかわかみのみや:大阪府泉南郡阪南町の菟砥川(うとがわ)流域)にて剣1千口を作り、石上神宮奈良県天理市)に納めた。そして、以後五十瓊敷命が石上神宮の神宝を管掌した。

 

同条別伝によると、五十瓊敷命は菟砥河上で大刀1千口を作らせ、この時に楯部(たてべ)・倭文部(しとりべ)・神弓削部(かんゆげべ)・神矢作部(かむやはぎべ)・大穴磯部(おおあなしべ)・泊橿部(はつかしべ)・玉作部(たまつくりべ)・神刑部(かむおさかべ)・日置部(ひおきべ)・大刀佩部(たちはきべ)ら10の品部(しなべ/ともべ)を賜った。また、その大刀は忍坂邑(おさかのむら。奈良県桜井市 忍坂(おさか))から移して石上神宮に納めたという。

 

 


· 垂仁天皇87年2月5日条 

 

五十瓊敷命は老齢のため、石上神宮神宝の管掌を妹の大中姫命に託した。大中姫命は、か弱いことを理由に神宝を物部十千根(もののべ の とおちね/とちね)に授けて治めさせた。これが物部氏による石上神宮での神宝管掌の起源という。

 

 


古事記』垂仁天皇段では、印色入日子命(五十瓊敷入彦命)は、血沼池(ちぬのいけ。茅渟池)・ 狭山池(さやまいけ。大阪府大阪狭山市)・日下の高津池(たかついけ。高石池に同じか)を造ったという。また、鳥取河上宮にて横刀1千口を作らせて石上神宮に納めたほか、同宮にて河上部を定めたという。