富士講 歴史 ②
富士講は、江戸幕府からはその宗教政策上好ましくないと見なされしばしば禁じられたが、死者が出るほどの厳しい弾圧は受けなかった。
しかし、明治以後、神道勢力からの弾圧が非常に激しくなった。その結果、やむなく富士講のその一部は教派神道と化し、食行の流れを汲む不二道(ふじどう)による実行教(じっこうきょう。實行教)、苦行者だった伊藤六郎兵衛(いとう ろくろべえ)による丸山教(まるやまきょう)、更に平田(平田篤胤)門下にして富士信仰の諸勢力を結集して国家神道に動員しようとした宍野半(ししの なかば)による扶桑教(ふそうきょう)などが生まれた。
明治以後、特に戦後、富士山やその周辺が観光地化され、登山自体がレジャーと認識されるようになり、気軽に富士登山をできるようになると、登山の動機を信仰に求めていた富士講は大きく衰退した。例えば、人穴富士講遺跡も碑塔の建設は1964年以降は行われていない。
冨士講は衰退し講員の数はめっきり減り、東京の街中などで講員が活動する姿を見ることはまず無くなったが、現在でも富士山に行けば富士講講員らが巡礼する姿を見ることができる。
2006年(平成18年)現在、十数講が活動し、3軒の御師の家(宿坊。しゅくぼう)がそれを受入れている。