大野湊神社 白山信仰との関連 ②
同じ佐羅宮は、別書『加賀白山伝記之事』には以下のように佐良の宮として記載されている。
第六勝佐良の宮と申奉るは、本地は聖観音、垂跡は地神第五鸕鷀草葺不合の尊となり。
南北朝から室町時代にかけて成立した義経記『愛発山のこと』に、関連する伝承がある。
弁慶、「・・・此のをあら血の山と申す事は、加賀の国に下白山(しもしらやま)と申すに、女体后の、龍宮の宮とて御座しましけるが、志賀の都にして、唐崎の明神に見え初められ参らせ給ひて、年月を送り給ひける程に、懐妊既に其の月近くなり給ひしかば、同じくは我が国にて誕生あるべしとて、加賀の国へ下り給ひける程に、此の山の禅定[=頂上]にて、俄に御腹の気付き給ひけるを、明神「御産近づきたるにこそ」とて、御腰を抱き参らせ給ひたりければ、即ち御産なりてんげり。其の時産のあら血をこぼさせ給ひけるによりて、あら血の山とは申し候へ。さてこそあらしいの山、あら血の山の謂れ知られ候へ」と申しければ、判官、「義経もかくこそ知りたれ」とて笑ひ給ひけり。
この生まれた子は佐羅皇子であるといい、佐羅早松神社との関係を示唆する。同時に、佐羅と佐那/佐良が通じることから、白山比咩神社と大野湊神社との関連をも示唆する可能性がある。大野湊神社に合祀される佐那武社は白山本宮の末社であり、その姫神と唐崎明神の子の佐羅皇子が佐那武=猿田彦として佐良嶽に祀られてた、という解釈が可能である。なお、この説に従えば、宮腰という地名は、白山の麓の宮(あるいは佐良嶽の麓の宮)と解釈できる。これは、古語の「腰」は山裾の意味を持つためである。