尾山神社 歴史

 

慶長4年(1599年)前田利家が没すると前田利長は、そのを祀ろうとしたが、公然と祀るには憚るところがあったので、越中国射水郡(いみずぐん)の式内社 物部神社もののべじんじゃ。現 富山県高岡市 東海老坂(ひがしえびさか))に併祀されていた八幡神勧請して金沢城の東に卯辰八幡社(うたつはちまんしゃ)を建て、ここに合祀した。この神社は、幕末になるとの財政が乏しくなり荒廃が目立つようになった。明治時代になって、1872年(明治5年)に教部省出仕 加藤里路(かとう さとみち。金沢藩の権大属(ごんのだいぞく)・宣教掛(せんきょうかかり)で、のちに尾山神社の社司)と石川県参事・桐山純孝(きりやま じゅんこう)が新たに藩祖を祀る神社を建てる計画をする。旧藩臣が集まり前田土佐守家の前田直信(まえだ なおのぶ)が代表になり明治6年金沢城の金谷出丸(かなやでまる)の跡地に新たに建立することとなった。元の卯辰八幡社は、明治11年、宇多須神社(うたすじんじゃ)となっている。



1873年(明治6年)3月に政府より神社創立許可が出て、同月14日に創建し、社号を尾山神社とした。同月30日に、明治4年7月卯辰山天神社に一時的に遷座していた神像を尾山神社に遷座した。11月16日にはときの県令 内田政風(うちだ まさかぜ)を始めとする官吏が参列して、卯辰山八幡宮より神霊遷座が行われた。当初、社格は郷社に列格され、翌年に県社に昇格する。



1873年(明治6年)11月には前田家当主・前田斉泰(まえだ なりやす)の子の少教正(しょうきょうせい)・大聖寺藩知事前田利鬯(まえだ としか)が説教を行っている。次々と境内施設が整えられていくなか、1875年(明治8年)11月に特徴的な神門が造立されることとなる。この神門は長谷川準也(はせがわ じゅんや)・大塚志良(おおつか しろう)により計画され、長谷川家出入りの大工・津田吉之助(つだ きちのすけ。1827年~1890年)によって建てられた。1879年(明治12年)7月には前田利長・前田利常(まえだ としつね)が相殿に祀られる。同年9月には歴代藩主を祀る境内摂社として金谷神社が創建される。



1874年(明治7年)3月に石川県中教院(ちゅうきょういん)が設置された。同年5月1日には中教院神殿の祭神4柱(造化三神天照大神)の鎮座式が前田利鬯を祭主として県令・県下神職僧侶参列の上で行われた。



1902年(明治35年)4月26日、長年の昇格請願運動が実り、米沢の上杉神社(うえすぎじんじゃ)と同時に別格官幣社に昇格している。7月3日-5日には昇格慶賀祭が行なわれた。



本殿と拝殿は1873年(明治6年)に建てたものである。