新潟縣護國神社 歴史
鳥羽・伏見の戦いから始まり、やがて全国各地に広がった戊辰戦争は、新潟市も例外なく激しい戦場と化した。西軍(薩摩、長州ら新政府軍)と東軍(米沢、会津、庄内)の両軍に多数の戦死者が出て尊い命が失われた。1868年(明治元年)の10月に新政府軍(西軍)側戦死者の墓碑を常磐ケ岡(ときわがおか。旧新潟大学本部の跡地)に設置され、戊辰戦争の戦没者415柱を祀って社殿を造立し新潟招魂社として祭られた。
1941年(昭和16年)7月新潟招魂社から護國神社と改称し、1945年(昭和20年)5月に西船見町(にしふなみちょう)に移転、1985年(昭和60年)旧新潟大学本部跡地から東軍戦死者のものと思われる92体分の遺骨が発見され、護國神社敷地内にある「戊辰役殉難者墓苑」に埋葬されて、1987年(昭和62年)に「戊辰役東軍慰霊碑」を建てた。