伊勢山皇大神宮 歴史 伊勢山の丘

 


神宮の鎮座する伊勢山の丘は、もともとは野毛山と呼ばれていたが、遷座の際に伊勢山と改められた。(現在、伊勢町(いせちょう)という地名は残るが、伊勢山という地名自体は残っていない)かつては麓の宮崎町(みやざきちょう)・花咲町(はなさきちょう)は海であり、野毛町(のげちょう)は野毛浦と呼ばれる湿地帯であった。これらの地域の埋め立てが進んだのは、幕末の開港以来である。神宮の境内の一部には伊勢山貝塚と呼ばれる遺跡が存在し、縄文後期の土器が出土している。また、この丘の一帯では紅葉ヶ丘や老松町で縄文期の住居跡も発見されている。現在の横浜中心部は、江戸前期に埋め立てられた吉田新田(よしだしんでん)にあたることから、横浜中心部周辺に於いては、この丘一帯が最古の居住地域の一つであると考えられる。横浜の開港直後の1859年安政6年)には、この丘に神奈川奉行所が設置された。開港場と外国人居留地が一望できたこと、また港を挟んで反対側にある山手の丘に居留民保護の名目で駐留する、イギリス・フランス両国の軍隊を監視できたことが、この丘が選ばれた理由であった。開港場の入り口吉田橋関門と東海道を結ぶ街道横浜道は、この丘に切通しきりどおし。野毛切通し)を作り、奉行所の横を通るように開通したが、これも防衛上の理由からである。(この横浜道は現在も横浜市主要地方道80号横浜駅根岸線の一部として、神宮本殿の裏を通っている)その後、神奈川奉行所は明治政府に接収され、その機能は横浜税関と横浜裁判所に分割されるが、この横浜裁判所が神奈川県庁の前身となる。その後、前述の通りに港と横浜中心部を一望できることが鎮座地に相応しいとして、神宮が創建されることになった。