箱根権現 歴史
箱根山では、古代より主峰・神山(かみやま)に対する山岳信仰があり、神山を遥拝できる駒ケ岳(こまがたけ)の山頂を磐境として祭祀が行われていた。特に、孝昭天皇の時代に聖占(しょうぜん)が駒ケ岳において神山を神体山として祀ったことが、山岳信仰の隆盛に大きな影響を与えたとされる。
天平宝字元年(757年)朝廷の命を受けて、万巻(まんがん)が箱根山の山岳信仰を束ねる目的で箱根山に入山し、神山や駒ケ岳で3年間修行して、相模国大早河上湖池水辺で難行苦行の功で三所権現(法体(ほったい)・俗体(ぞくたい)・女体(にょたい))を感得した。法体は三世覚母(さんぜかくも)の文殊菩薩の垂迹、俗体は当来導師(とうらいどうし)の弥勒菩薩の垂迹、女体は施無畏者(せむいしゃ)の観世音菩薩の垂迹とされる。
伝承では、万巻は神託に基づいて、箱根権現を祀る社殿(現在の箱根神社)を建立したほか、地元の人々を悩ませていた九頭龍を鎮め、龍を祀る社(九頭龍神社)も建立したとされる。その後、神仏習合の流れの中で、箱根権現への信仰は台密の影響を大きく受け、多くの修験者が箱根山に入山して関東の修験霊場として栄えた。
平安時代に箱根路が開かれると、旅人が箱根権現に道中の安全を祈願することも多くなった。
鎌倉時代に、箱根権現は源頼朝の篤い崇敬を受け、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に次いで関東武士の信仰を集めた。箱根権現・伊豆山権現を併せて二所権現と呼び、二所詣の風習も生まれた。
室町時代、地元駿河国 駿東郡(すんとうぐん)豪族の大森氏の出身であった37世證実(しょうじつ)と兄の大森頼春(おおもり よりはる)が上杉禅秀(うえすぎ ぜんしゅう)の乱で鎌倉を追われた鎌倉公方 足利持氏(あしかが もちうじ)を箱根権現に匿ってその危難を救った功績によって、大森氏と箱根権現には箱根山の両側(足柄下郡(あしがらしもぐん)・駿東郡)に広大な所領を与えられた。
戦国時代に入ると大森氏は新興の伊勢宗瑞(いせ そうずい。北条早雲)に滅ぼされるが、早雲も箱根山の掌握を重視して自分の子を箱根権現の別当にすべく送り込み、やがてその子は40世長綱(ながつな。後の北条幻庵(ほうじょう げんあん))となっている。
江戸時代に箱根の関所が置かれて東海道が整備されると、交通の要所に位置することとなった箱根権現は一層篤い信仰を受けるようになった。
明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づく箱根三所権現は箱根神社(はこねじんじゃ)へと改称され、箱根山東福寺は廃寺に追い込まれた。明治6年には明治天皇と昭憲皇太后が参拝し、その後も皇族の参拝が続いた。
昭和55年、昭和天皇と皇后とが参拝し、昭和56年には、浩宮(ひろのみや)皇太子も参拝した。