神田明神 伝説
神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺(なりたさん しんしょうじ)を参拝してはいけないというタブーが伝えられている。これは朝廷に対して叛乱を起した平将門を討伐するため、僧・寛朝(かんちょう、かんじょう)を神護寺(じんごじ)護摩堂の空海作といわれる不動明王像と共に現在の成田山新勝寺へ遣わせ、乱の鎮圧のため動護摩の儀式を行わせたことによるもので、即ち、新勝寺参拝は将門を苦しめるとされるため。
なお、同じく将門を祭神とする築土神社(つくどじんじゃ)にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされた。将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたのである。
ただし、成田屋の屋号で知られる歌舞伎の市川宗家では歌舞伎十八番の一つ「鎌髭」(かまひげ)で将門を演じており、「助六」(すけろく)を演じる際には魚河岸との関わりから神田明神内にある水神社(すいじんじゃ)への参拝を行う。