鷲宮神社 歴史

 


別名を土師の宮(はにしのみや)とも言われ、一説には崇神天皇時代河内国から東国へ移住した土師(はじ)氏下総国浅草から利根川を上って当地に移住した際に先祖を祀ったのが起源ではないかと言われている。そして、「はにしのみや」がいつしか訛って、現在の「わしのみや」になったとされる。後述する神楽は、伝承に基づいて「土師」の名称を用いている。



鷲宮神社は「関東最古の大社」を名乗っているものの、歴史資料に現れるのは『吾妻鏡』の県庁3年(1251年)の記載が最初であり、この主張は根拠を欠いている。ただし、発掘調査によって縄文時代の遺跡が見つかっており、古くから住民がいたことはわかっている。



中世以降には本社周辺の地域が将軍領・太田荘(おおたのしょう)となり、総社として扱われたことから関東の総社・関東鎮護の神社として東国の武家の崇敬を受けた。建長3年(1251年)、北条時頼が当社に奉幣祈願したことが『吾妻鏡』にあるほか、藤原秀郷新田義貞古河公方(こがくぼう)関東管領の歴代上杉氏などが幣帛の奉納、神領の寄進、社殿の造営などを行っている。鎌倉時代から室町時代までは太田荘の総社であったため、藤原秀郷流太田氏、後に子孫の小山氏が管理しており、裏手には栗原城という城郭が存在した。応安5年(1372年)には小山義政(おやま よしまさ)が社殿を再興している。また、太田荘内、中川沿いには多数の分祀が生まれた。



天正19年(1591年)、徳川家康が社領400石を寄進し歴代の将軍も朱印状を発行して社領を安堵した(朱印地)。江戸時代初期から明治時代初期まで、神社所領は大内氏が治めた(所領約1000石)。江戸時代初期、徳川家光日光東照宮参拝の際、利根川渡河の警備に参加した大内氏は家光が利根川に落水した際これを助けた。この功により本来ならば領地を加増されるところであったが、関ヶ原から間もない時期でその余裕もなかったためかその代わりに江戸城内での1万石の格式を与えられた。そのため江戸城への登城時は大名が通される部屋に通され、また大内氏の用人は江戸城内では「家老」待遇となったと伝えられる。



明治元年(1868年)、明治新政府により準勅祭社(東京十二社)の1社に指定された。明治初頭の寺院整理神社統合により、別当大乗院は廃止された。