笠間稲荷神社 歴史 近世 ①
創建以後、江戸中期までの沿革は不詳である。江戸時代になると広く知られるようになり、歴代の笠間(かさま)藩主が厚く崇敬した。三代藩主 松平康長(まつだいら やすなが)や忠臣蔵で有名な浅野家なども、転封し笠間を離れても分霊を新たな領地で祀るなど、庶民のみならず歴代藩主からも手厚い信仰を受けてきた。
今日の笠間稲荷神社の隆盛は、井上正賢(いのうえ まさかた)の頃から始まる。天明4年12月朔日(1784年)の社蔵文書に、次のような縁起が記されている。
· 寛保3年(1743年)の夏、城主井上河内守正賢の霊夢に、白髪束帯の老翁が現れた。老翁は高橋町の稲荷であると名乗り、祠は狭隘(きょうあい。狭いこと)で安らかでなく、里人も憂いていると語った。正賢が驚いて目覚めると、枕元に胡桃(くるみ)の実があった。奇異に感じ、従者に確かめさせたところ、確かに高橋町に稲荷社があるという。正賢は霊験顕著な祠があることを知らずにいたことを悔やみ、祠宇の後5歩をはじめとして、祭器や禮具を寄付し、祭事を盛んに行った。
· 数年後、正賢が江戸藩邸にいたところ、束帯の官人が胡桃子一筐(はこ)を手に訪れた。官人は胡桃下稲荷門三郎(くるみがしたいなり もんざぶろう)であると名乗り、先年、君の寄付によって居を広めたことについて、郷人は大いに喜んでおり、私もこれに感動し、今から益々国民を保護しようと語った。正賢はいよいよ神威を感じ、旗二流を奉納し、笠間においては必ず参拝し、事故があれば近侍を代拝させるようになった。