月山神社 由緒 ③
延長5年(927年)の『延喜式神名帳』により名神大社へ列格された。また同じ『延喜式』の「主税式」においては、月山神と大物忌神の祭祀料として2,000束を国家から受けている。
上記のように『日本三代実録』や『延喜式』では田川郡の山である月山の神が飽海郡の神とされているが、これは、この段階では鳥海山(ちょうかいさん)の大物忌神社(おおものいみじんじゃ)とともに国府近くの飽海郡において社殿が営まれ奉斎されていたからだと思われる。
詳しい時期は不明だが、おそらく平安時代中期から明治の神仏分離まで、月山は出羽三山の一角として修験の道場となっていた。なお、奈良時代末期に至るまで開山を裏付ける資料は発見できないが、平安時代になって初めて考慮を要する資料を見ることが出来る。
この出羽三山の宗教勢力は次第に隆盛し、一大領国とも言うべき大勢力となって行った。このため戦国時代から安土桃山時代には、自勢力に取り込もうとする武藤氏、上杉氏、最上氏などの戦国武将達から干渉を受けた。特に最上義光(もがみ よしあき)は庄内平野へ侵攻するにあたり、しばしば月山を越えたため、兵卒により御室が荒らされたり、仏像や神宝が略奪されるなどした。このため羽黒山では、月山の西の覗(のぞき)にある洞穴に仏像や神宝を隠し、その秘密を守るため妻帯修験の重陽坊(ちょうようぼう)に一子相伝で管理させた。しかし、その一方で、関ヶ原の戦い以後、庄内や由利(ゆり)を領有した最上義光は、出羽三山を懐柔するため羽黒山・月山の修理再建を行った。その一つとして慶長6年(1601年)当社本宮の修復が行われている。