出羽三山 歴史 ①

 


出羽三山は、出羽三山神社の社伝では崇峻天皇(すしゅんてんのう)の皇子、蜂子皇子はちこのおうじ。能除太子(のうじょたいし))が開山したと伝えられる。崇峻天皇が曽我氏弑逆(しぎゃく/しいぎゃく。政治的・宗教的理由によって自分が仕えるを殺害すること王殺し)された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。そこで、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える。



月山神社は『延喜式神名帳』に記載があり、名神大社とされている。出羽神社も、『神名帳』に記載のある「伊氐波神社」(いてはじんじゃ)とされる。古来より修験道(羽黒派修験など)の道場として崇敬された。三山は神仏習合八宗兼学(はっしゅうけんがく)の山とされた。鎌倉時代には僧兵の存在が確認され、幕府に地頭の干渉について訴えを起こし認めさせている(『吾妻鏡』)。室町時代以降、長覚(ちょうかく)湯殿山で、全岩東純(ぜんがん とうじゅん)越叟了閩(えっそう りょうびん)界厳繁越(かいがん はんえつ)らが羽黒山で出家した後、鎌倉や京都で学び高野山無量寿院や、長州大寧寺(たいねいじ)、駿河梅林院などで活躍した。江戸時代には、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが以下のように、仏教寺院と一体のものとなった。