田の神 鹿児島県・宮崎県の田の神 ②
青山幹雄(あおやま みきお)の『宮崎の田の神像』によれば、宮崎県の場合は、旧薩摩藩支配領域に元々分布していたが、明治時代以降人々の移動により、その分布がやや拡大し、たとえば宮崎市近郊にも広がったこと、古い習慣で「オットイタノカンサー」、すなわち、部落の若者が他の部落から盗むこと習慣などが記載されている。これは、習慣であるから、また取り戻したりする。実際行われることは少ない。また、秋の収穫時の祭りには品のない言い合いをして、日ごろのうっぷんを晴らしたり、それについては江戸時代では、武士などは見て見ぬふりをしたという。宮崎県には神官型が多いこと、鹿児島県には農民型が多いこと、宮崎県小林にみられる陰陽石(いんようせき)や、霧島噴火なども関係あるとしている。宮崎県に僧侶形が稀なのは、一向宗弾圧と関係あるのではないかと述べている。宮崎市の生目(いきめ)小学校前にはコンクリート製の田の神が設置されている。 もとより、田の神講そのものは他地域でも広くみられ、「田神」「田ノ神」「田の神」の文字の彫られた石碑は南九州に限らず、全国の路傍などに広汎に分布している。