黄金山神社(石巻市) 由緒 ②

 


江戸時代まではこの社伝縁起(当時は寺伝)が広く受け容れられ、陸奥国小田郡(おだぐん)式内社「黄金山神社」はこの産金に因んで創祀されたと考えられる為にその「黄金山神社」に比定されても来たが、文化10年(1813年)に伊勢国国学者 沖安海(おきやすうみ)が天平産金の故地は現宮城県遠田郡(とおだぐん)涌谷町(わくやちょう)(旧くは小田郡に属す)であり同地に鎮座する小金神明社が式内黄金山神社である事を査定して再興した為に(現・黄金山神社(こがねやまじんじゃ。涌谷町))、当神社の創祀に関する縁起も再考される必要が生じた。その結果、海上に屹立するその山容が牡鹿半島周辺沿岸部の人々から神霊の宿るものと意識されて島自体を神霊視する自然崇拝の対象とされていたと思われ、5峰に分かれて「峯巒六十八区、渓澗モ亦四十八谷」とも称される急峻な地形をなす金華山を、平安時代以降に修験者、それも大金寺に真言宗の開祖である弘法大師に結びついた伝承が多く見られる事や三陸地方の沿岸部一帯には弁財天を祀る真言宗寺院が多い事等からとりわけ真言系の修験者の活動によるものであったと思われるが、それら修験者が島を霊場として開くとともに大金寺を開創した事が発展の契機となったと推測される。その場合、修験者は本州島の最東端に位置する孤島という立地から金華山を古代中国日本で希求された東方海上に浮かぶ仙土たる蓬莱山(ほうらいさん)常世国(とこよのくに)といった理想郷に見立て、大金寺を中心に金華山を開いて弁財天を祀った結果、弁財天の授福を司る神格が天平産金の史実及び「金花咲く」の歌に結び付けられたものとも考えられる。なお、仙台藩の藩撰地誌である『封内風土記(ほうないふどき)には、そもそもは神代三輪明神が黄金を練って4本の(杭)で築(つ)いて金華山島を造り、天照大神の「正魂」を「留主姫大神」(るすひめのおおかみ)と称して鎮座させたのが後に弁財天となったとの縁起を「旧説」として載録している。また、式内「黄金山神社」説は否定されたが、代わりに陸奥国牡鹿郡の式内「大嶋神社」(おおしまじんじゃ)に比定したり同「計仙麻神社(けせまじんじゃ)に比定する説がある。