猿賀神社 歴史

 


日本書紀』によれば祭神は伊峙水門で敗死したとあり、伊峙水門には上総国 夷灊(いしみ)郡(旧千葉県 夷隅郡(いすみぐん))説と陸奥国牡鹿郡(おしかぐん)石巻(いしのまき)(現・宮城県石巻市)説とがあるが、社伝によれば、敗死した田道命は従者によって当地に埋葬され、後に蝦夷がその墓を暴いたところ、田道命の遺体が大蛇と化して毒気を吐いたので、人々が恐れて現在地西方の猿賀野に祀ったのに始まると伝える。200年後の欽明天皇28年(567年)に当地で洪水があり、田道命の神霊が白馬にまたがり流木を舟にして流れに乗り、現在地に遷座し、桓武天皇の時代に蝦夷征討に苦戦していた坂上田村麻呂が田道命の霊に導かれて大勝したので、延暦12年(793年)、田村麻呂が現在地に祠を造り、大同2年(807年)には勅命により社殿が造営されたと伝える。



後に、仏教の守護神である深砂大王(じんしゃだいおう)と習合し、深砂大権現じんじゃだいごんげん。神蛇宮(じんじゃぐう))と呼ばれるようになった。武神として信仰され、藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)北畠顕家(きたばたけ あきいえ)ら附近にかかわった武将たちの崇敬を集めた。江戸時代には津軽藩の祈願所となり、猿賀山長命院(さるがさん ちょうめいいん)と号する修験道場となった。明治神仏分離により、明治4年(1871年)に神社となり、地名より「猿賀神社」に改称し(現在もかつては境内地であった社前に旧別当寺である神宮寺天台宗)が残る)、同6年郷社に列し、更に同16年(1883年)には県社に昇格した。戦後は神社本庁に参加し、昭和34年(1959年)にその別表神社とされている。