和邇 実在生物に比定する説 ワニ説 

 


20世紀に入り、ワニ説はヨーロッパでの神話に対する研究手法を取り入れ、現代の考証に耐える研究として発展した。



高木敏雄(たかぎ としお)1904年『比較神話学』の抜粋を示す。



所謂稲羽の兎の説話は兎の鰐を欺きしを語る。鰐は元来、南洋地方或は熱帯地方の動物にして、日本近海の魚族に非ず。獅子の生存せざる欧羅巴の動物説話に、此動物の現わるるは、その起原の印度なるを示すものとせば、同様の理由によりて、日本説話に鰐の見ゆるは其南方起原を証明する者には非ざるや。(1文略)日本古代の説話は鰐に就いて語ること甚だ多し。之れ恐らく、偶然には非ざる可し。

 

 

論理的な考証を積み重ね、発展したワニ説に対し、サメ説での新たな根拠の提示はなく、ワニ説を主張しているかのような記述さえなされている。喜田貞吉は、1912年『読史百話』において、サメ説の根拠として、出雲地方でサメをワニという事をあげているが、後述する折口信夫の講演から逆算すると、文字通り十年一日、同じ事を十年間繰り返していただけになる。当然、ワニザメというサメがいるとは記しても、イタチザメやネコザメといったサメがいて、なぜ、イタチやネコがサメを意味しないかといった点については、何の説明もしていない。さらにサメ説を主張したはずが、『出雲風土記』にある海岸を逍遥していた娘が和邇に喰われた話を引用、「こは、実録にして神話にあらず」と記している。丸山林平(まるやま りんぺい)が古事記に比べ極めて後の時代で、古事記とは性質が異なるとした批判によるなら、古事記の話とは無関係の件を持ち出しただけだが、津田左右吉(つだ そうきち)が和邇は上陸できるとした批判によるなら、喜田自身が和邇は上陸できると明言した事になる。松本信廣(まつもと のぶひろ)によってこの話は国外からもたらされたワニの話であるとされたことは後述する。さらに、喜田は、和邇が鰐になったのは、「帰化の史官」が「其の形の彼我ヤヤ相類し、皮膚堅硬、時として人畜をも捕り喰うの点相似」ていたので、うっかり間違えたためだと記した。和邇とワニの特徴が皮膚の特徴に至るまで似ている点を示し、サメについてはこの点何も記さず、そのままワニ説の根拠になる記述をしている。



1910年代〜1920年代、発展するワニ説に対し、サメ説からは離反が続いた。後に、後述する西岡によって「当時学会の論客、白鳥・喜田両博士の強い論調に押されて古事記の」註で和邇を鮫としたと批判された4人のうち、少なくとも3人は、サメ説の主張をやめてしまった。 物集高量(もずめ たかかず)の1912年『新撰日本歴史辞典』には、古事記に登場する多数の事物が載っているが、因幡の白兎と和邇については項目そのものがない。 次田潤(つぎた うるう)は1924年『古事記新講』において、ワニ説・サメ説の両論併記ともどっちつかずの中立とも言える記述をしており、少なくともサメ説を推す立場ではなくなった。 松岡静雄(まつおか しずお)は1929年『日本古語大辞典』において、『因幡の白兎』では狩谷エキ齋を引用しワニは日本にいないから和邇はサメだろうとしているが、豊玉姫の話ではワニでなければならないとし、また、和邇に乗った話では舟としている。後述するように中山林平にサメ説を批判されているが、それほど強く主張している訳ではない。サメ説の根拠として、サメの背をウサギが渡ることは、よく思いつきそうなこと、としているが、その例は示していない。『記紀論究』でも同様の主張であるが、豊玉姫の話の話が後にあるため、書き進むにつれ、サメ説の弱い主張からワニ説の強い主張に変化した形になっている。サメやエイの魚煮のワニ料理がない日向が舞台とされる話では、ワニとしている分、単純なサメ説よりは、根拠との整合性もある。悪魚の意味で鰐とし中山と似たことを記し、後に、舟としての和邇の起源は南方にある事を強く主張するに至る。この場合もワニを海の神とする中山の説と共通することも記している。