月讀神社(壱岐市) 歴史
延宝以前の由緒来歴は不明。延宝4年(1676年)に平戸藩の命を受けて壱岐島の式内社の調査を行った橘三喜が当神社を式内名神大社の「月読神社」に比定し、同年6月1日に藩主松浦鎮信(まつら しげのぶ)により石祠と神体として木鏡1面が奉納され、以後しばらくは式内社とされたが、それ以前は特段の祭祀設備もなく単に「山の神」と称されるのみであった。三喜が式内社と認定したのは鎮座地が「清月(きよつき)」と呼ばれていたからであったが、別に「ふかつき」とも呼ばれており、その語源は「ふかふち」であると見られるので、この三喜の判断には疑問が持たれている。
神功皇后が三韓征伐の際に腹に当てて出産を遅らせたとされる石、月延石の内一つが奉納されているとされるが、現在所在が分からなくなっている。古来はかなりの社格を持った神社だとされているが、長い間忘れ去られていて現在氏子など地元住民や島外の崇敬者によって、社殿などの整備が行われている最中である。社殿は木々に覆われていて、昼なお暗く月の神を祀る神社らしい風情がある。
なお、壱岐島の月読神社に関しては、『日本書紀』顕宗(けんぞう)天皇紀に、同天皇3年(西暦487年)、阿閉臣事代が任那(みまな/にんな)に使いに出された時、壱岐島で月神が憑りついて宣託をしたので天皇に奏上し、壱岐島から月神を勧請して山城国葛野郡(かどのぐん)歌荒樔田(うたあらすだ)の地に葛野坐月読神社(かどのにます つきよみじんじゃ)を創建したとあり、その元宮とされる。