美奈宜神社(朝倉市林田) 歴史 中世

 


三代実録によると清和天皇貞観元年(859年)1月27日筑前国従五位の下美奈宜神社従五位上の授位が行われたことが登録されている。



延長5年(927年)に朝廷により定められた延喜式では美奈宜神社は式内大社に列せられ明神帳に記載された。



往古美奈宜神社が九州の著名な神社として国家のいくつもの史書に記載されていたことは、つまり筑後川が古代の人々の生活を支えていてこの川の両岸に古代の集落が発生し、年と共に発展して行きこの川が九州を横断する主たルートであり、この川畔に祭られた美奈宜神社が両岸の多数の群落の人々はもちろん、多くの旅人からも厚い崇敬を集めていたことの証しであるとも言える。



延元(えんげん)2年(1338年)菊地武敏(きくち たけとし)軍と足利尊氏の先陣弐頼尚(しょうに よりひさ/よりなお)軍が戦った筑後川水城渡の戦で戦火に遭い、社殿宝物記録類の一切を消失し以来衰退することとなったが、足利尊氏は神慮を恐れて社殿を再興した。また永正6年(1509年)秋月城主秋月伊豫守種時(あきづき いよのかみ たねとき)が社殿を再建し神輿及び清道旗(せいどうばた)を奉納し、神幸行列の先駆として現在まで継続されている。