竈門神社 神宮寺

 


当社には、かつて神宮寺として大山寺(だいせんじ)があった。宗派は天台宗



大山寺は、西国の天台宗寺院を代表する存在であったという。寺名は、竈門山寺(かまどさんじ)・内山寺(うちやまじ)・有智山寺(うちやまじ)とも記される。ただし、これらが同一の寺を指すかは確実ではない。



神宮寺に関する史料では、延暦22年(803年)の記事が最古である。下宮にある礎石群から、8世紀後半にはかなりの規模を誇っていたと見られている。史料によると、その延暦22年(803年)には最澄入唐(にっとう)の折に竈門山寺において、入唐4船のため薬師仏4躯を彫ったという。また承和14年(847年)には唐から帰国した円仁(えんにん)が神前で読誦し、仁寿2年(852年)には円珍(えんちん)が読誦した。承平3年(933年)には、沙弥証覚(しゃみ しょうかく)によって延暦寺の「六所宝塔」のうちの1つが建てられたという。



当寺は平安時代中期、文治4年(1188年)までには竈門神社と一体化し、宮寺として活動していた。その後、大山寺は平安時代後期の11世紀末には一時石清水八幡宮の末寺となったが、12世紀初頭に比叡山延暦寺の末寺となった。このため、当寺の訴えは中央の京都にも及んでいる。竈門宮に正一位が授けられた嘉承元年(1106年)頃には数多くの僧坊を擁し、竈門神とともに最盛期をなした。平安末期の『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)では、筑紫の霊験所の1つとして「竈門の本山」と歌われている。



宝満山は鎌倉時代末期から室町時代修験化し、彦山(ひこさん。英彦山(ひこさん))を胎蔵界・宝満山を金剛界とした峰中修行が形成された。南北朝時代に入ると、付近に有智山城宝満城等が築かれた関係で戦乱に巻き込まれ、寺勢は衰退していった。弘治(こうじ)3年(1557年)には大友宗麟による検地・堂社破壊によって社勢・寺勢は衰退し、盛時には370坊あった僧坊も近世初頭には25坊にまで減少したと伝えられる。



その後、近世に小早川氏・黒田氏によって山伏の修験道場として再興された。しかし、寛永18年(1641年)の火災で多くの堂社を焼失したこともあり、江戸時代中期以前に周辺の僧坊のほとんどは廃絶、残った仏教施設も明治の廃仏毀釈で一掃された。