志賀海神社 歴史 概史

 


記録上は、古くは天平3年(731年)の日付の「住吉大社司解」に記載が見える。また『新抄格勅符抄』では、大同元年(806年)時点で「阿曇神」に神封じんぷ。寄進された封戸)として8戸があったと見える。



国史によると、天安3年(859年)に「志賀海神」の神階が従五位上に、元慶4年(880年)に「賀津万神」(仲津宮に比定)が従五位下に昇叙されている。延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では、筑前国糟屋郡(かすやぐん)に「志加海神社三座 並名神大」と記載され、名神大社に列している。



志賀海神社に関するそのほかの平安・鎌倉期の史料は数少なく、『小右記(しょうゆうき)万寿(まんじゅ)3年(1026年)に志賀海神社社司が入宋し、翌年に帰国したという記録が見える程度である。



鎌倉時代元寇の際には志賀島は戦場となったが、志賀海神社境内は『蒙古襲来絵詞』に「志賀島大明神」の名称で記載されている。



南北朝時代以降、志賀海神社は武家の支配を強く受けた。応仁3年(1469年)には少弐頼忠(しょうに よりただ)が対馬東月寺の住持に志賀島宮司職が安堵されており、その後は大内氏から庇護を受けた。また志賀海神社では、に渡航する前に航海の無事が祈願されていた。



近世には、筑前国を治めた小早川氏黒田氏の庇護を受けた。慶長5年(1600年)に入国した黒田長政により、神殿・拝殿・楼門等が造営されたという。また、文化14年(1817年)の社領は50石であった。



明治5年(1872年)、近代社格制度において村社に列し、大正15年(1926年)に官幣小社に昇格した。