志賀海神社 歴史 創建
創建は不詳。社伝では、古くは志賀島の北側において表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたが、阿曇磯良(あずみのいそら:阿曇氏祖)により、そのうち表津宮が志賀島南側に遷座して現境内となったという。仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている。その阿曇磯良は、神功皇后の新羅出征において舵取りを務めたとも伝えられる。
古代の九州北部では、海人(あま)を司る阿曇氏(安曇氏)が海上を支配したとされる。志賀島は海上交通の要衝であり、その志賀島と海の中道(うみのなかみち)を含めた一帯が阿曇氏の本拠地であったとされており、志賀海神社は阿曇氏の中心地であったと考えられている。現在も志賀島の全域は神域とされ、現在の神主家も阿曇氏の後裔を称している。なお阿曇氏の活動は日本全国に展開したといわれ、長野県安曇野市(あづみのし)、石川県羽咋郡(はくいぐん)志賀町(しかまち)、滋賀県安曇川(あどがわ)、愛知県渥美(あつみ)半島といった「しか」「あつみ」という地名は、その遺称地と伝えられる。
また志賀島は金印(漢委奴国王印)が出土したことで知られるが、当地で奴国(なこく、なのくに)の印が出土した理由は明らかではなく、阿曇氏ひいてはその氏神たる志賀海神社と奴国の関わりを推測する説もある。