織幡神社 祭神 祭神について
織幡神社の祭神を武内宿禰(武内大臣(たけしうちのおおおみ))とする説は、古くは15世紀中頃成立の『宗像大菩薩御縁起』まで遡り、同縁起では後述(創建節)の創祀伝承が記されている。その一方、織幡神社境内は海に突き出す要衝の鐘ノ岬(かねのみさき)に所在し、かつ一帯は『和名抄』の「海部郷」にも比定され海部が存在したと見られる地域であることから、元来は海人族により祀られる海の神であったと推測する説が挙げられている。後述(伝承節)のように『万葉集』には鐘ノ岬を過ぎる際に「志賀の皇神」(志賀海神社(しかうみじんじゃ)祭神:阿曇(あづみ)氏奉斎神)に祈願する旨の歌が見えることから、海人族の阿曇氏(阿曇族)が当地に居住して志賀神を奉斎したと見る説もある。
また『日本書紀』応神天皇紀では、天皇は阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)に呉(中国の江南の地)に赴いて縫工女(きぬぬいめ)を得るよう命じたが、阿知使主らは帰国の際に「胸形大神(= 宗像大神)」に求められて同神に工女4人のうち兄媛を献上したとする伝承が記されており、この伝承と織幡神社とを関連付ける説もある。その説の中で、神に献上する衣を織る織女が神格化された可能性が指摘されるほか、機織を担った渡来系氏族の共通の祖として武内宿禰が祭神に選ばれた可能性が指摘される。
祭神7柱のうち壱岐真根子は、織幡神社のかつての社家である壱岐氏(いきうじ)の祖とされる。この壱岐氏の存在に加えて、『宗像大菩薩御縁起』に見える「御手長」(みてなが)が壱岐島の式内社の天手長男神社(あめのたながおじんじゃ)・天手長比売神社(あめのたながひめじんじゃ)とも関連付けられることから、織幡神社の祭祀と壱岐島との関係を推測する説もある。
その他に祭神の異説として、大御食津神(おおみけつかみ)とする説、呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)とする説がある。