忌部神社(吉野川市) 由緒 ②

 


明治3年(1870年)村社に列したが、上述のように近世以降所在不明とされたために、翌4年に「所在地不明」のまま国幣中社に列格した式内忌部神社が、国学者 小杉榲邨(こすぎ すぎむら)の考証によって当神社に論定されたため、翌5年に国幣中社へ昇格した。しかし、式内忌部神社を主張していた美馬郡(みまぐん)西端山(にしはばやま。現 つるぎ町貞光)の五所神社からの反論があり、同7年(1874年)に改めて当神社を比定するという太政官布告が出されたものの、その後も激しい論争が続いたため、同14年(1881年)に五所神社を式内忌部神社に変更し、当神社は村社に戻ることとなった。ちなみに、五所神社比定に対し、今度は山崎側が反発したため、太政官による妥協策として徳島市内に新たに創祀されることとなったのが、徳島市二軒屋町(にけんやちょう)の現 忌部神社(いんべじんじゃ)である。



近年は、上述忌部山古墳群の発見により、式内忌部神社であったことが再確認されている。