大和大国魂神社 由緒 ②
正応(しょうおう)2年(1289年)7月には一遍上人が当神社に詣でて歌を詠み、これを木札に書いて社殿の正面に打ちつけた、と『日本の神々 -神社と聖地- 3 摂津・河内・和泉・淡路』では述べている。この木札は、『一遍聖絵』の編者 聖戒(しょうかい)が一遍の死後に訪れた時にはそのまま残っていたのだと言う。また同書によれば、一遍上人は当神社の祭神が伊弉冉尊だと聞いて厚い祈りを捧げたと言い、さらに社前に小屋を建てて踊念仏(おどりねんぶつ)を行い、「南無阿弥陀仏」と書いた紙片を配っていたのだと言う。
「護国寺文書」の一つ『淡路国諸寺諸山供養注文事』によれば、賀集八幡(かしゅうやはた。南あわじ市賀集八幡)の伶人(れいじん。音楽を奏する人。特に雅楽を奏する人)によって当神社へ舞楽の奉納が行われていた。『日本の神々 -神社と聖地- 3 摂津・河内・和泉・淡路』によれば、これは室町時代の事だと言う。
江戸時代には徳島藩主・蜂須賀家が当神社を深く信仰し、元禄15年(1702年)に社領2反を寄進した。その後も代々の祈願所と定めて崇敬し、社殿の改築が度々行われたと言う。本殿再興のほか、文政12年(1829年)と天保14年(1843年)の諸殿建立など、明治維新による廃藩置県まで行われたと言われる。
明治元年(1868年)の神仏分離令により、当神社境内にあった淡路西国霊場第12番大和寺観音堂および淡路四十九薬師第2番薬師堂は外へ移された。明治6年(1873年)には旧社格制度により県社へ列格し、明治10年(1877年)三原郡一円の信徒による郡費を充てて本殿および諸建物がすべて新築された。
平成7年(1995年)1月17日に阪神・淡路大震災が発生した際、建立から約400年を経ていた鳥居が修復不能の損傷を受けた為、平成10年(1998年)12月に掃守(かもり)・上幡多(かみはだ)・下幡多(しもはだ)・松田(まつだ)・山所(やまじょ)の5地区の氏子が協力して現在の鳥居を新たに建立している。