伊達神社(和歌山市) 歴史 概史
国史では、いずれも志摩神・静火神とともに
承和(じょうわ、しょうわ)11年(844年)に正五位下、
嘉祥(かしょう、かじょう)3年(850年)に従四位下、
貞観(じょうがん)元年(859年)に正四位下、
貞観17年(875年)に従三位の神階昇叙の記事が記載されている。
『延喜式』神名帳では紀伊国名草郡に「伊達神社 名神大」と記載され名神大社に列しているほか、『紀伊国神名帳』では「正一位 伊達大神」と記載されている。
また、伊達神社は志磨神社(しまじんじゃ。和歌山市中ノ島)、静火神社(しずひじんじゃ/しづひじんじゃ。和歌山市和田)とともに「紀三所社(きのさんしょしゃ)」と称されたとされる。「紀三所社」の記載は、永承(えいしょう)3年(1048年)の収納米帳を初めとして、『中右記』(ちゅうゆうき)天仁(てんにん)2年(1109年)条、『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)四句神歌等に見える。『住吉大社神代記』では紀三所社の由来について、神功皇后が三韓征伐に用いた船3艘を武内宿禰に祀らせたことによるとする。
当社は以上の「伊達神社」に比定されているが、『紀伊続風土記』によれば近世にはその比定を巡って議論があった。すなわち、当社がそれまで伊達神社を名乗っていたにも関わらず、寛保(かんぽう、かんぽ)年間(1741年-1744年)に和歌山市小野町の水門吹上神社(みなとふきあげじんじゃ)が式内伊達神社を主張し、和歌山藩がその主張を認めていた。そのため『紀伊名所図会』では吹上社が伊達神社に比定されており、当社は「薗部神社」と称していた。
また『続風土記』では当社の社殿は織田信長によって焼かれたというが、真偽は明らかでない。
明治に入り、社名を旧号の「伊達神社」に戻した。明治14年(1881年)、近代社格制度において郷社に列した。