鳴神社 歴史 概史
国史では貞観元年(859年)に従五位下勲八等から従四位下勲八等の神階昇叙の記事が記載されている。
『延喜式』神名帳では紀伊国名草郡に「鳴神社 名神大 月次相嘗新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・相嘗祭(あいなめのまつり)・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。紀伊国に名神大社は多いが、三祭で奉幣を受けたのは鳴神社と日前神社、國懸神社、伊太祁曽神社の4社のみであった。この4社については『令集解』(りょうのしゅうげ)神祇令でも「日前・国県須・伊太祁曽・鳴神」として、11月上卯の日の相嘗祭に際して奉幣社に列した旨の記載が見える。
永禄3年(1048年)の収納米帳では、鳴神社田3段340歩が見える。また『紀伊国神名帳』では「正一位 鳴大神」と記載されている。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉による紀州征伐での太田城(おおたじょう)水攻めに際して、鳴神社含め付近は大いに荒廃したという。享保4年(1719年)に社殿の造営がなされ、神田5反が寄進された。
明治6年(1873年)に近代社格制度では村社に列した。明治40年(1907年)、神社合祀令に伴い近隣にあった式内社の堅真音神社(かたまおとじんじゃ)・香都知神社(かつちじんじゃ)を境内に合祀した。