日前國懸神宮と高大明神の用水相論 経緯
相論は日前宮側の訴えに発する。永享4年(1432年)春に日前宮が和佐庄が宮井から勝手に引水していると訴え、これに対する和佐庄が古来の慣習であると反論、武力衝突に発展しそうになったが、この時は守護代である遊佐国継(ゆさ くにつぐ)の口入(くにゅう。調停のこと)によって5月に一応の解決を見て、日前宮に有利な裁決が下されたようである。
しかし翌永享5年に再燃、日前宮が和佐庄が前年同様の行為をしている、と神宝を担いで嗷訴(ごうそ。強訴)する動きを見せたために、和佐庄の給人(きゅうにん)等が幕府へ訴えることとなり、郡代である草部盛長が庄の代表2名を守護所へ吹挙(すいきょ。推挙)し、更に守護代国継が彼等を在京中の守護 畠山満家(はたけやま みついえ)へ吹挙した。当時の幕府における所領相論の裁許(判決)は、まず訴人(原告)の訴えをそのまま認めて、係争地を訴人へ打渡(うちわた)し、論人(被告)に異論があれば改めて論人側から提訴するという慣例であったため、4月19日付で「理非(訴えの正否)の糾明」は後日の事とした上で「近年の例に任せてその沙汰を致さるべし」との御教書(みぎょうしょ、みきょうしょ)が発給され、これを受けた守護代国継による遵行状(じゅんぎょうじょう)や現地の郡代盛長による打渡状(うちわたしじょう)において、用水は「和佐へ取るべし」と和佐庄側に有利な措置が取られたため、これを不服とした日前宮によって改めて上訴がなされた。その後訴論人両者が幕府において対決したようであるが、裁判の経緯や結果は残されておらず、不明である。