日前國懸神宮と高大明神の用水相論 概説
中世には日前宮が鎮座地周辺を社領として経営しており、紀ノ川(きのかわ)から社領域の農業用水として宮井(現・宮井川(みやいがわ))を引いていた。一方平安時代末には神宮領の東北方に立荘されていた和佐庄は、庄内の農業用水として宮井から引水する和佐井を開削していた。
相論は永享4年(1432年)に起きたが、当時は和佐庄によって紀ノ川左岸河口部の氾濫原(沖積低地)の開発が急速に進められていたと見られ、同庄は10年程前の応永29年(1422年)にも隣接する石清水八幡宮領の岩橋庄との間で境相論を起こしている。こうした和佐庄の新開発に対して、社領域の農業生産を宮井に依存していた日前宮が危機感を募らせたことによる異議申し立てが本相論であったと推測でき、このように理解すれば用水の上流と下流に位置する者同士のありきたりの相論に過ぎなくなるが、本相論は灌漑用水の管轄権の推移や室町時代の裁判手続きの具体相を伺わせるものともなっており、特に後者の点については守護と守護被官(ひかん)に対する在地社寺勢力の葛藤といった面を髣髴とさせるものがあるために興味深いものとなっている。