大屋都姫神社 歴史 概史 中世以降

 


社伝では、大永(たいえい)の大乱(16世紀前半)や天正の兵火(豊臣秀吉の紀州攻め)に罹ってから衰微したという。



紀伊続風土記』所引「寛文記」によると、近世には神田2町(約2ヘクタール)を有していた。この神田は戦後まで存続したものの、昭和21年(1946年)の農地改革により消失したとされる。また同記では、当社を始めとする近辺の石高500程の地を「神の木」と呼び往古の広大な社叢の名残であろうとするが、詳細は明らかでない。『紀伊続風土記』では、当時の当社は宇田森・北野2村の産土神であるが本来はこの2村の属す平田荘全体の産土神であったと見て、荘内の相論による弘西(ひろにし)・西田井(にしたい)・北の村々の分離により2村のみが産子となったと推測する。



明治6年(1873年)4月に近代社格制度において村社に列し、明治13年(1880年)には県社に昇格したまた明治44年(1911年)には、和歌山市北字宮ノ後にあった総社神社(そうじゃじんじゃ。旧村社)を合祀した。戦後は神社本庁に属している。