安仁神社 歴史
創建の年代は不詳。社伝では、神武東征の際に五瀬命が数年間この地に滞在し、神武天皇が即位の後に五瀬命ら皇兄たちをこの地に祀って「久方宮(ひさかたのみや)」と称したのが起源としている。
国史の初見は『続日本後紀』の841年(承和8年)2月8日条に「安仁神預名神焉(あにのかみみょうじんにあづかる)」とあるもので、平安時代後期に編纂された『延喜式神名帳』では備前国では唯一の名神大社に列せられている。元々は当社が備前国一宮となるはずであったが、939年(天慶2年)における天慶の乱(てんぎょうのらん)において当社が藤原純友方に味方したため、一宮の地位を朝廷より剥奪されたとされる。その後、備前国一宮の地位は天慶の乱勃発当時に朝廷に味方した備中国の一宮である吉備津神社(きびつじんじゃ)より御霊代を分祀されて創建した吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ。岡山市北区一宮)に移ったと伝えられる。
元々、社殿は背後の宮城山(みやしろやま)の山頂にあったが、1344年(康永3年)に火災で焼失した。その後、備前藩主 池田綱政(いけだ つなまさ)によって現在地である中腹に再建され、備前藩の祈願所となった。
1871年(明治4年)に国幣中社に列せられ、祭典への勅使参向、1926年(大正15年)には皇太子裕仁親王(ひろひとしんのう。後の昭和天皇)の行啓を仰ぎ、祈年祭・新嘗祭・例大祭には併せて幣帛供進使の参向があった。第二次大戦後は神社本庁所管の神社として別表神社となった。
明治年間、大雨によって本殿後方の法面(のりめん。切土や盛土により作られる人工的な斜面のこと)が崩れた際に弥生時代中期の銅鐸が発見された。この銅鐸については後に京都大学教授の小林行雄(こばやし ゆきお)によって学会に報告されている。銅鐸は岡山県指定重要文化財に指定され、岡山県立博物館に寄託されている。