伊勢命神社 由緒

 

社家の伝えによれば、伊勢族が隠岐の島に来住した当初、毎夜に海上を照らしながらやって来る神火(じんか/しんか。怪しい火)があり、それが現鎮座地の南西5.5km隔たった字仮屋の地に留まるので、その地に小祠(しょうし)を建てて祖神である伊勢明神勧請奉斎したところ神火の出現も止んだといい、その祠を後に現在地に遷座したものであるという。



正倉院文書天平4年(732年)『隠岐国正税帳』(おきのくにしょうぜいちょう)には役道(穏地)郡の少領(しょうりょう)として磯部直万得という名が見え、また島前(どうぜん)ではあるが平城京出土木簡知夫利評(ちぶりのこおり)の石部(いそべ)真佐支という名が見えるので、隠岐国に磯部(石部)が置かれていたことがわかる。磯部は『古事記応神天皇段に海部(あまべ)とともに設置されたと記す「伊勢部」の事と見られ、海部と同じく漁猟を職とする部民であったが、海部が西国を主に広く分布するのに対し、磯部(伊勢部)は伊勢を本拠地として東国を中心に広く分布したとされ、また伊勢の地名も「磯」に基づくものであるとされることから、磯部を介した伊勢との関係がうかがえ、特に当神社の鎮座する穏地郡の磯部氏が郡少領を務めるほどの有力者であったらしいことから、当神社の創祀には磯部氏を頂点とする海民の動きがあったものとも推定されている。



早くから中央に知られた神社であり、『続日本後紀嘉祥元年(848年)11月壬申(16日)条に、「しばしば霊験ある」によって「明神(ママ)の例に預かる」と載せ、六国史に名神大社列格の理由を明示する数少ない例ともなっており、延喜の制でも国幣小社(名神大社)とされた隠岐国4大社の1社であるが、『隠岐国神名帳』の穏地郡には見えない。



中世以降は武家によって崇敬されて来たといい、寛正3年(1462ね)の重栖(おもす)清重による会串田という名の田地の寄進、元亀元年(1570年)の隠岐国守護を称する佐々木為清(ささき ためきよ)による太刀1口の奉納、慶長12年(1607年)の松江藩主・堀尾吉晴(ほりお よしはる)の山林の寄進などが知られる。近世の社領地石高2であった。



明治5年(1872年)郷社に列し、戦後神社本庁に参加している。