宇受賀命神社 由緒
貞享(じょうきょう)5年(1688年)の『増補隠州記』(ぞうほいんしゅうき)に、嘉吉(かきつ)年中(15世紀中頃)に炎上して縁起を焼失したとあり、創祀の年代や事由は不明であるが、上述のように鎮座地宇受賀の守護神として古くから祀られて来た。大正頃(20世紀前葉)の社蔵記録によると、遷座の時期は詳らかにしないものの、かつては現在地から北方150間(およそ270メートル)隔たった、海面から36、7尺程(およそ10メートル強)の高さの断崖上に鎮座していたという。『続日本後紀』に承和9年(842年)由良比女命神(由良比女神社。ゆらひめじんじゃ)、水若酢命神(水若酢神社。みずわかすじんじゃ)とともに官社に預かったことが見え、隠岐国ではもっとも早く中央の史書に現れる神社の1社で、延喜の制では国幣大社(名神大社)に列した隠岐国4大社の1社でもあり、国内神名帳である『隠岐国神名帳』にも「従一位宇酒賀大明神」と記載を見る。
中世を通じて国衙や守護職から重きを置かれ、文明7年(1271年)に当地の田荘(たどころ)と目代(もくだい)から祭祀料として国衙領の中の田地2段(720坪)が寄進され、明徳4年(1392年)には在地豪族である源満重(みなもとの みつしげ)から正月に1段、8月に修理料用として2段の田地が寄進され、嘉吉2年(1442年)には社領6町1反余り(およそ22,000坪弱)が守護使不入(しゅごしふにゅう)の権利とともに安堵され、天正10年(1582年)には隠岐守護代 佐々木(隠岐)経清(ささき(おき)つねきよ)が2名内から4段半と280歩の田地を寄進するなどしている。殊に文明7年と明徳4年8月の寄進状には「公私御祈祷所」と記されているので、国衙からの信仰の対象とされていたこともわかり、以上のことから当神社を中世における隠岐国一宮とする説もあるが(『隠岐国代考証』)、これは隠岐国ではなく郡(海士郡。あまぐん)の一宮または惣社(そうじゃ。総社)と見るのが妥当であろう。また、『増補隠州記』に「此宮は根元天竺ふ里うた(わ)うの子孫たりと云伝る」とあることから、中世以降両部神道の影響を受けていたようで、応永5年(1398年)、同11年、同19年、同21年、永禄9年(1566年)、文禄5年(1596年)などの奥書(おくがき)を持つ代般若経284巻も残されている。
近世には社領10石を有し(『増補隠州記』)、寛文7年(1667年)の『隠州視聴合紀』(いんしゅうしちょうがっき)に「前に花表(とりい。鳥居)を立て瑞籬(み
ずがき。瑞垣)長し」と当時の様子が記されている。
明治5年(1872年)10月郷社に列し、戦後は神社本庁に参加している。
※守護使不入(しゅごしふにゅう)
鎌倉時代・室町時代において幕府が守護やその役人に対して犯罪者追跡や徴税のために、幕府によって設定された特定の公領や荘園などに立ち入る事を禁じたこと。守護不入(しゅごふにゅう)とも。