㯮椒神社 由緒
鎮座地は古くから東方の番屋峠(ばんやとうげ)を越えたり南方の太田越(ただごえ)で神鍋高原(かんなべこうげん)方面を経由する等して豊岡盆地へ通じており、奈佐川(なさがわ)や稲葉川(いなんばがわ)の水運を利用した但馬国の国府との結び付きが想定され、『延喜典薬寮式』(えんぎてんやくりょうしき)諸国進雑薬条に但馬国から進上する事が定められていた「蜀椒」(しょくしょう)1斗と当神社との関連も指摘されている。
社伝によれば、白鳳14年(685年)に但馬国国司の榛原公鹿我麿(はいばらのきみかがまろ)が祖である大山守命を祀り、翌朱鳥(しゅちょう、あかみとり)元年(686年)に当地で収穫した山椒の実を絞って得た油を朝廷へ献上したというが、信憑性には疑問が持たれる。承和9年(842年)に官社に預り、貞観10年(869年)に従五位下から従五位上に昇叙され、延喜の制では名神大社に列せられている。因みに同じく但馬国の名神大社である山神(山神社。やまじんじゃ)、戸神(戸神社。とのじんじゃ)、雷神(雷神社。いかづちじんじゃ)、海神(海神社。かいじんじゃ)も官社列格、従五位上昇叙ともに同時である。
時期不明ながら山城国の石清水八幡宮から八幡神を勧請したらしく、中世以降は「枡(椒)別宮」として同宮の但馬八所別宮の一とされ、弘安8年(1285年)の年紀を持つ但馬国の大田文(おおたぶみ)にも「八幡宮領椒別宮」とある等、同宮の荘園の鎮守神とされ、以降専ら「八幡宮」と称された。また、大岡山山腹にあった大岡寺(おおおかじ)との関係も深く、同寺の北の寺域を示す境界には当神社の鳥居が建てられていた記録があり、近世には同寺を別当寺としていた事が確認できる。その他、延宝7年(1679年)や享保6年(1721年)の記録によると鎮座地周辺に7畝(せ)の社領を有していた事が判り、山間部ながら近在の段に生野代官(いくのだいかん)による金山経営が行われて小規模な鉱山集落が形成されたため、天保5年(1834年)には氏子140戸を数えた。
明治6年(1873年)村社に列し、同22年(1889年)に本殿を再建、幣殿を新築し、昭和27年(1952年)に本殿廻りに改修を施している。