水谷神社 由緒

 


創祀年代等不明。保食神が人々に稲を始めとする五穀の栽培法を教えたため、地名を「米地」と称し、同神を祀ったものとの説がある。『延喜式神名帳』に名神大社として記載される古社で、当初は現鎮座地の南方、奥米地と中米地の境界を成す谷を「水谷」といい、その谷奥に懸かる滝の更に上部に鎮座していたという。



但馬国の水谷神社は、弘安8年(1285年)の『但馬国大田文(たじまのくにおおたぶみ)に「水谷社」、嘉元4年(1306年)の『昭慶門院(しょうけいもんいん)領目録案』に「水谷大社」等と見えるが、これは今の養父神社の事と説かれ、何時の頃からか養父神社に合祀されて「養父水谷大明神」と号されたために混同されたものと解され、また奥米地にはなお和魂を祀る神社が残されていたので、後にそこへ再度分祀されたものとも推定されている。その後大嵐によって社殿が流失、その社殿が流れ着いた米地川(めいじがわ)沿いの平地において奉斎される事となったが、宝永7年(1710年)に現在地へ遷座されたという。



明治6年(1873年)10月に村社に列せられた。