大虫神社(与謝野町) 歴史 平安時代以降
国史上では『文徳天皇実録』に従四位下に叙せられた記事があり、『延喜式神名帳』では小虫神社とともに名神大社に列し、現存する『丹後国神名帳』には「正一位大虫明神」と記されている。正応(しょうおう)元年(1288年)には14町7反236歩(凡そ53,000坪、約18ha)の神田を有していたようで、現在も温江地区に「御供田」(ごくでん)や「燈明田」(とうみょうだ)「油田」(あぶらでん)などの小字名が残されている。
その後室町時代初期に池ケ成から現在地へ遷座したというが、遷座の事情や経緯は不明である。現社地が属す温江は、『和名抄』に見える与謝郡謁叡(あちえ)郷の遺称地とされ、北接する明石(あけし)にかけての一帯に蛭子山古墳(全長145m)に代表される大古墳や弥生から古墳時代前期に亘る住居跡が集中することから、古代丹後地方において最も開発の進んだ地帯であったと思われ、また、丹波国から丹後の国府(現宮津市国分に置かれていた)へ至る官道(令制における山陰道)が通い、字虫本からは大江山連峰を越えて由良川(ゆらがわ)筋へ連絡する枝道が分かるなど、古代交通上の要衝でもあった。なお文化7年(1810年)年刊の『丹後旧事記』(たんごきゅうじき)巻之九には、現社地「虫本」の字名は天武天皇の白鳳14年に巡察使(じゅんさつし)として派遣された石川虫名(いしかわの むしな)が自分の名前に因んで名付けたとの説を掲げている。
朝廷や貴族、武士に至るまで崇敬を集め、近世までは阿知江郷16か村の鎮守と崇められ、かつては後野(うしろの)の字地蔵堂に一の鳥居があったといい、明治までその踏石(ふみいし)が存在したが、それも明治20年(1887年)頃に取り除かれた。明治6年(1873年)2月に豊岡県の村社に指定され、同10年4月に社殿再建中の失火により社殿や上述の麻呂子親王奉納と伝える神像、境内社に至るまで全焼したため、同14年4月に再建するとともに8月には村社阿知江神社(祭神少童命)と無格社床浦神社(とくらじんじゃ。祭神:大田命(おおたのみこと))を合祀(ちなみに神像は江戸時代の模刻を祀るようになった)、同41年(1908年)に神饌幣帛料供進社の指定を受け、大正7年(1918年)10月24日に府社に昇格した。戦後は神社本庁に参加している。