宇奈己呂和気神社 歴史 概史
『続日本後紀』によれば、承和14年(847年)に宇奈己呂和気神は従五位下の神階を授けられ、『類聚国史』には貞観11年(869年)に正五位下の神階へと昇叙されたという記述がある。延長5年(927年)に編纂された『延喜式』には、宇奈己呂和気神社は名神大社として指定され、安積郡の式内社三座の大社として領主・民衆から永きに渡って篤く尊崇された。また、宇奈己呂和気神社は安積三十三郷の総社(惣社)とされた。
鎌倉時代に入り、安積郡の地頭として工藤祐経(くどう すけつね)が配置され、庶子である工藤祐長(くどう すけなが)を安積へと派遣した。当時、地元民衆の心をつかむためには「鎮守信仰」を利用することが常道とされていたため、工藤祐経も信仰していた伊豆国の三嶋大社・伊豆神社(いずじんじゃ)・箱根神社(はこねじんじゃ)を安積郡に勧請した際は、いきなり宇奈己呂和気神社の相殿神として合祀することはせず、まずは境内末社として祀り、民衆の安定化と信仰の定着を図った。その後、応永6年(1399年)に足利満兼(あしかが みつかね)が陸奥・出羽支配のために足利満直(あしかが みつなお/みつただ。篠川(ささがわ)御所)・足利満貞(あしかが みつさだ。稲村(いなむら)御所)を下した際も同じような政策が取られた。足利満直が陸奥国安積郡篠川に下向した際は、由緒ある宇奈己呂和気神社の再興を志し、応永9年(1402年)には社殿と境内を整備し、鎌倉より従い来た家来である大原康信を神官として任命し社務を執り行わせた。現在も大原家が宮司社家として奉斎している。
高旗山から現在の鎮座地に遷座した時に八幡大神を相殿神として合祀して以来、宇奈己呂和気神社は「八幡神社」、江戸時代には「相殿八幡神社」と呼ばれていた。武神である八幡神を祀るため、近隣の武将からも篤く崇敬を集めていた。領主であった伊東高行(いとう たかゆき)・蘆名盛高(あしな もりたか)・蘆名盛氏(あしな もりうじ)・蒲生氏郷(がもう うじさと)の社領二百石の寄進状や、上杉景勝の意が示された慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い前の祈願文、『相殿八幡文書』と呼ばれる古記録など貴重な文書が残されている。明治15年(1882年)には、宇奈己呂和気神社は郷社に指定された。