多珂神社 貴船神社(多珂神社論社) 歴史
貴船神社の創建時期は不明だが、元亨(げんこう、げんきょう)3年(1323年)以前から信仰されていたとされ、『奥相志』(おうそうし)によれば、神体を収めた箱には保延(ほうえん)五己未年8月に造営されたという銘文があるという記述がある。なお、神体は「龍にまたがり白衣を着た像」であるとされる。文治5年に相馬師常(そうま もろつね)が行方郡を領地とすると、貴船神社を郡内の総社とし、社殿の修飾を行うなど篤く信仰した。貴船神社は、主に祈雨・止雨、五穀豊穣、開運出世、武術の神として信仰されていた。
『奥相志』によれば、南小高邑(みなみおだかむら)の貴布禰(貴船)社内に多珂神社があったという。宮方二尺五寸の社殿であった。景行天皇の時代に勧請された神社で、祭神は伊弉諾尊と高皇産霊尊の二座、相殿神として蚕養明神(こがいみょうじん)を祀っていた。
文化12(1815年)乙亥年、相馬藩主である相馬益胤(そうま ますたね)は、祠官社家と渡部美綱という者に行方郡内の式内社八座を調査し特定するよう命じた。渡辺美綱は、延喜式内名神大社とされる多珂神社は、高邑の光明寺境に鎮座する鷹大明神であると報告した。その報告に対し、小高邑の貴布禰社の祠官である高玉丹波という者が、多珂神社は小高邑に鎮座する小祠であると上稟した。
それによれば、多珂神社は三種の神器のうちの八尺瓊勾玉を地主神として勧請した神社であり、古より小高村の地主神であると報告した。祠官家の先祖は元々は「多珂玉」と名乗っていたが、多珂神社に憚って「高玉」と名乗るようになった。多賀信仰の総本社である滋賀県の多賀大社(たがたいしゃ)は「お多賀さま」と呼ばれており、小高郷の名前は、鎮座する多珂神社を「御多珂」と称したことにちなむという。高玉氏は小高(おだか)区の相馬小高神社(そうまおだかじんじゃ)近くに鎮座する貴船神社と多珂神社の祭祀を司っており、貴船神社から十間ほどの小高邑二本松という場所に多珂神社が鎮座していた。その後、元禄年間に起きた洪水で多珂神社は流されたが、農夫が水中から祠を拾い上げて貴船神社の境内に合祀された。
以上の小高邑の多珂神社に関する由緒を高玉丹波が書き記して藩へと報告された。しかし、『奥相志』の記者によれば、
· 文化12年の藩による調査以前に行われた式内社比定調査では、小高邑の多珂神社は記録されていない
· 高邑の多珂神社の社家である島氏の記録は元禄15年の社家名簿や正徳年間の寺社問好誌にはあるが、高玉氏の記録は寛保元年以降に出てくる
など、高玉丹波の説は疑うべきところが多いとしている。
現在、貴船神社参道入口にある由緒書の石碑には、祭神は高龗神(たかおかみのかみ)・闇龗神(くらおかみのかみ)と記されており、多珂神社については同床同座で鎮座していると記述されている。