赤城神社 概史 平安時代
六国史には神階記事として、『続日本後紀』839年(承和6年)に従五位下、『日本三代実録』867年-874年(貞観9年-16年)に昇叙し、880年(元慶4年)従四位上に叙せられた記録が残る。さらに『上野国交替実録帳』(九条家本延喜式裏文書)によれば、長元年間(11世紀)に正一位としてみえる。また、歴史書には赤城山の神は「赤城大明神」として記されている。
上記の赤城神社がどこにあったかは不詳であるが、神社の成立をみると、当初の信仰は村落の信仰場所たる里宮で、のち山頂部に山宮(奥宮)が成立したとされる。このため、律令体制内での赤城神社は村落部にあったと考えられ、『宮城村誌』ではこの里宮を二宮赤城神社ではないかとしている。
また、産泰神社(さんたいじんじゃ。前橋市 下大屋町(しもおおやまち))が里宮とする説もある。現在は安産の神として信仰されるが、神体として社殿の裏手に赤城山火砕流の巨岩がある点や、南面する旧参道から見ると赤城山を望む点は、原始的な赤城への信仰形態とされる。