三宮神社(吉岡町) 歴史 概史

 

国史では、「伊賀保社」は承和2年(835年)に名神に列したと見えるほか、「伊賀保神」の神階が承和6年(839年)に従五位下、貞観9年(867年)に正五位下、貞観11年(869年)に正五位上、貞観18年(876年)に従四位下、元慶4年(880年)に従四位上に昇叙された旨の記載が見える。その神階は上野国において、貫前神(ぬきさきのかみ)に準じ、赤城神(あかぎのかみ)と同格になる。



延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では、上野国群馬郡に「伊加保神社 名神大」として、貫前神社(ぬきさきじんじゃ)・赤城神社(あかぎじんじゃ)とともに名神大社として記載されている。



長元(ちょうげん)3年(1030年)頃の『上野国交替実録帳』では、「正一位伊賀保明神社」の項に玉殿1宇・幣殿1宇・鳥居2基・向屋1宇・美豆垣1廻・荒垣1廻・舞人陪従屋1宇・厨屋1宇と記載がある。しかしこの社殿規模は貫前社・赤城社に劣り、他の式内小社・式外社と同格になる。そのためこの頃までには衰微したものと考えられ、伊香保の地に移ったのもこの頃と推測される。



『上野国神名帳』では、いずれも鎮守十社のうちで、総社本では3番目に「正一位伊賀保大明神」、一宮本では2番目に「正一位伊賀保大明神」、群書類従本では3番目に「正一位伊香保大明神」と記されている。同帳では、関連神名として「若伊賀保神(わかいかほのかみ)「伊賀保若御子明神」「伊賀保木戸明神」の記載も見える。



南北朝時代成立の『神道集』では、「上野国九ヶ所大明神事」や「上野国第三宮伊香保大明神事」に記述が見える。これらによると、伊香保神は貫前神(一宮)・赤城神(二宮)に次ぐ上野国三宮であるほか、湯前にある男体(本地仏薬師如来)と、渋川保三宮の里宮にある女体(本地仏:十一面観音)とから成るという。



近世以降の三宮神社は衰微し、詳細は明らかでない。対して山宮は伊香保温泉(いかほおんせん)とともに発展し、近世まで「湯前大明神」(ゆのまえだいみょうじん)と称していたが、明治6年(1873年)に「伊香保神社」と改称している。現在では、里宮・山宮の間に祭祀関係はない。